『2009年度鑑賞者研究プロジェクト報告書』にて参与観察者として分析を行なっていただいた平野智紀氏のブログ『McMaster Blog』に、ACOPの鑑賞会に関する記事を掲載していただいておりました。同氏の了解を得て転載させていただきます。
また、今年度も鑑賞会に参加していただけるボランティアの方の募集を行ないます。募集の詳細は改めて告知いたしますが、学外の鑑賞者の方々と行なう鑑賞会 は、学生にとって大変貴重な経験を得る機会となっております。今年度もみなさまのご協力をいただけますよう、よろしくお願いいたします。
平野智紀氏のブログはこちら→『McMaster Blog』
ACOP鑑賞会に関する記事はこちら→「京都造形芸術大学のACOPに参加してきた!」「鑑賞による対話」
(以下、『McMaster Blog』2009年12月21日記事より)
鑑賞による対話
ふたたび、京都造形芸術大学に行ってきた。今回も、アート・コミュニケーション・プロジェクト(ACOP)の鑑賞者ボランティアとして、鑑賞会に参加するのが目的である。
前回はプロジェクトそのものについて書いたので、今回は鑑賞会で起こっていたことをまとめてみようと思う。毎回、対話型鑑賞を導く4人のナビゲーター役の学生)が、それぞれ1つの作品をもとにトークを展開していく。今回取り上げられたのは、ダイアン・アーバスの「ハドソン街で見つけた10代のカップル」、狩野永徳の「唐獅子図屏風」、やなぎみわの「赤ずきん」、ルネ・マグリットの「不許複製(エドワード・ジェームズの肖像)」である。作家の名前だけ見てもわかるとおり、いわゆるファイン・アートの作品ばかりではない。前回はアニメ「シンプソンズ」の一場面が取り上げられたりもしており、アートとは何か、ということ自体を問い直させる作品選びになっている(作品選びについても、学生ひとりひとりが、なぜそれを選んだのかをきちんと説明できないと、ナビすることは許されない)。
*image from http://nymag.com/nymetro/arts/art/reviews/11297/
たとえば「ハドソン街で見つけた10代のカップル」では、10代半ばぐらいの男女が父親や母親の服を着てポーズをとってみたのではないか、という意見から始まった。自分も子どもの頃そういった背伸びをしたかった、という経験からの話である。しかし、それにしては服のサイズがぴったりである。男の子の髪型もスーツもコートも、ばっちり決まっている。それに対して、女の子の方はワンピースにウールのコートをあわせているところまではいいが、靴はパンプスではなくスニーカーである。よく見ると、髪が黒く、顔の彫りが深いことから、移民の子どもではないか、という意見が出る。男の子の表情はばっちり決まっているのに、女の子はこちらを視線を向け、当惑した表情を見せている。女の子の肩を抱く男の子の手を見るとやや力んでいるようにも見える。女の子は男の子に誘われたが、パーティに行くかどうかまだ決めかねているのかもしれない。ファッション雑誌に載っていそうなかっこいい写真のようでいて、ぱっと見たときに違和感を覚えずにいられない写真である。この違和感は、カメラのアングルにも拠っているのではないか、という意見が出る。ダイアン・アーバスは、真正面から子どもたちを捉えるのではなく、斜め上から撮影しているのである。これにより、子どもたちの頭が相対的に大きくなり、彼らをより子どもっぽく見せている。画面を上下に切っている壁のラインも斜めになっており、不安定な感じをあおる。ダイアン・アーバスは子どもというステレオタイプを捉えたかったのではないか。 逆に子どもたちはこのファッションによって、大人というステレオタイプに向かっているのではないか。双方がステレオタイプ的にものごとを捉えているからこそ、この作品が成立するのではないか。
たぶん、これだけ深く作品と向き合うことのできる機会はなかなかない。1作品にかける時間は20分から40分ほど。目の前にある「みえる」ことをベースに 出発するということは、すべての鑑賞者を平等にするメディアとして作品が機能しているということである。だからこそ、自分を取り巻く日常の関係性から解き放たれて意見を言うことができる。それでいて、自分が発する意見は自分の日常に基づいている。一人ひとり異なる日常を生きている相手の意見を「きく」ことは、自分の作品に対する理解を広げるきっかけになる。対話の交通整理をするナビゲーター自身も、少しだけ進んだひとりの鑑賞者である。作品について伝えたいことをたくさん持っているが、それを講義するようなことはしない。講義をしても、それぞれの人の心の深くまでは浸透しない。彼ら/彼女らは、さりげなく (でもそのさりげなさの中に熱い気持ちをもって)、対話をリードする。
カウンセリングが専門だというACOPの研究員の方が「これは対話型の鑑賞ではなく、鑑賞型の対話だ」とおっしゃっていたのが、とてもしっくりきた。たしかに、ACOPは鑑賞そのものを目的としていない。鑑賞すること(みること)からはじめ、それについてかんがえること、はなすこと、きくことが目的である。アートは鑑賞者と作品の間に生じる深遠なコミュニケーションであるとするなら、ACOPという場で起こっていた対話こそがアートだ。